浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

浮遊霊ブラジル

浮遊霊ブラジル、読了。

運命には、意表を突かれた。そうして僕らが生まれたのだとしたら、死ぬときもやはりそんなものなのかもしれない。つまり、うっかりとか、思ってないとか。

アイトールベラスコの新しい妻、では、スクールカーストという閉鎖的な空間で起こる地獄が描かれた。

地獄では、こんな地獄死ぬより辛いと思ったけれど、誰とも話さずだんだん意識だけが遠のいていくのは、結構現実味のある死に方のような気がする。

結局私達は今まであるスキルで生きてくしかない。死ぬからって、急に文学的になったり、賢くなったりしない。今あることの延長で、僕らは生きることにも死ぬことにも向き合わなきゃいけないってことだ。

タイトル読んだときに感じた強烈な違和感。浮遊霊とブラジルが読み終わる頃には仲良くてを繋いでいるのが不思議であり大成功だと思う。ブラジル辺りまで行ったら確かに成仏できそうだ。

最も強く感じたこと、死ぬより成仏できないほうがずっとずっと怖い。

手痛い批評

誰彼の面白い話なんぞいうのはもういい
聞きあきた
誰かを微笑ませたい?
そんな欲をもつ者は地に落ちればよい
聞きたいのは如何にしてあなたが生きているのか
あなたが心を踊らせるなにかであって
操作的な自己顕示的な偽善のようなものではない
短く言葉にしてすらすらと
この際自分を語るのもやめにしたらどうか
ゆるくつながるなんて吐き気がする
それなら誰とも一緒にいないことで結構だ

虞美人草を読んで 夏目漱石

道義と一個人としての利益。人間の信頼・信用とは一体何かという古く新しい問いに立ち戻らせてくれる小説である。

他人に対して、信じられない行いをしたものは、その後も人に対する疑念がぬぐい去れない。自らを鏡のように転写するのが常人であるからである。このため、自らを信じられる(真面目)状態におくべきことが肝要であると感じた。それが結果、他のためにもなる。利益が絡み時にはそれが難しい選択のように思われるかもしれないが、結果的には自らも他をもを救うのである。いつも真面目であることはないが、大事なときには真面目に立ち返れないと大きな犠牲を払うことになるのだ。恋愛は一大事だ。生活も大事だ。しかし本当に大切なものは信であるとこの小説は言っている気がする。

また犠牲を強いられた結果としてあることを選ばされたのと、自らの選択として選んだのでは、この間にはれっきとした差が生じる。主体者が自らの問題として、犠牲を選び取った、あるいは腹の底から理解してその状況を選んだのであれば、その影響は限定的である。自ら選択したという能動的な姿勢は新しい人生を切り開くキーになり得る。自然の中に流されるようにして、選ぶ(或いは選ばない)ことを決めるのではなく、あくまで自分の意志として選択するということが重要である。

決して目先の状況に流されないようにせよ、自らの選択として自ら信じるものを
信じろ、それがいずれ自分や周りの人生を救うのだと夏目先生に言われているようである。

自分を振り返ってみると、この小説を10年前に読んでいたとしたらここまで心に響いただろうか。ただの恋愛小説としか読めなかったのではないか。結局、人生を我がものとして眺める姿勢を欠いていたのだと思う。自分の人生上の大きな変化で、この小説の言わんとするところが朧気ながらわかるようになってきた気がする。その意味で血にも肉にもなった小説だった。

公園の裏手に

松林の間を薄紅色の睫毛が匂う
しなやかにしなだれて誘う
夜の時間は自らを去るように幻惑的で
昼の時間は潮騒のように揺らめいている
ガラスでできた海月が発光して漂う
ここはまるでガラスでできた博物館
どの生命も同等に展示されているのだ
まつげに当たる風優しく柔らかく
暗闇に匂いたつは梅
踊るようにガラス海月が泳ぐ
僕はただ息をつめてそれを眺める
時間が止まったここはまるでガラスの博物館

悔やむ日

君が帰ってきたような気がして窓の外を見る
あるのはただ風に吹かれて転がった如雨露だけ
細い枝を鞭のように唸らせて風はただ吹きすぎる
その風は萩を揺らし麦を揺らし真白な月を掠め今しがた君のところから吹いてきたばかりのように思える
大空は寒としてただ真っ青である
なんで君はもうここにいないんだろう
きらっと一筋落ちた晩の流れ星が君だったんだろうか
枯れ葉が一枚風に舞う吹き飛ばされる転がる
しらしらとただ静かな冬の日である
鳥が一斉に飛び立ち何かの終わりを告げる
何が正解で何が間違っているのか
それを決めるのは他ならぬ自分だけれども
風に吹かれ吹かれしている間にすっかり襤褸になった

私信(と言っても読んでもらえることはない)

あなたが遺したテキストを今ごろになって読んでます。あの頃は、あなたを好きだと言いながら、あなたの文章を真剣に読んではいなかった。そう今は痛感します。あなたが好きな詩を私も好きだということが、ただ嬉しかった。あなたが選ぶ言葉一つ一つが、輝いているように見えて、うっとりとしていたのにすぎませんでした。さて、時が経ち、当時のあなたと同じ年齢に近づきました。そうして、あなたの遺したテキストを読むと、目指していたところ、現実、焦り、ある種のポーズ、背伸び、そういうものが手に取るようにわかる気がする。わかられるのはきっとお嫌でしょうが、直接言えないのだから、許してください。あなたのことが、部分的ではあるが、わかった気がするんです。今しみじみと読んでいると、日本語を愛し、情景を愛し、自分を客観的に見るよう努力していたのが、よくわかる。同時に、フレームに自分を入れ込むことで、ある種の演出をしていたことも、わかります。いくつかのテキストは今も胸に残ります。そこには、悲しいまでに自然を愛して見てるあなたの姿がくっきりと残っているから。あのときはきちんと読んでなくてごめんなさい。理解しないのに、好きでいてごめんなさい。今、あなたのことは、好きでも嫌いでもないてすが、あなたの遺したテキストは、ちゃんと好きです。
あなたが今何を思うのか、それが今私の一番知りたいことです。

サカナクション讃歌

ある日、FMから聞いたことあるはずのに、聞いたことない曲が流れてきて、驚いた。その前の週もどこかで聞いたような、それどころか20年くらい前も聞いたことがあるような。正確には、これはシンディーローパー的80年代、と思った。だけど、よくある曲だったら、耳をすり抜けて行っただけだっただろう。でもこの曲はなんだか違った。そんなことが、2回くらい続いて、やっと曲名を知った。サカナクション新宝島

サカナクションの名前は前にも聞いたことがあったような気がした。同時期のバンド達とごちゃまぜになってはいたけど。新宝島が妙に耳に残って、YouTubeを見て、レンタルCD店に行った。新宝島は新しいらしくなかった。試しに一枚だけ、と思ってレンタルしたのが、sakanactionだった。

ラジオを聴く、というのは、多様性の一部なんじゃないかという気がしてる。誰か知らない人のお気に入りの一枚を聴くということは、自分の好きな曲だけを選んで聴いていたら絶対に起こらないことだ。うすく広く平等に注意をさ迷わせること。

それで、家に帰ってCDをかけた。思えば、CDを聴くのは久しぶりで。大抵今までウォークマンにいれた曲で回していたから。平気で10年くらい経ってたんじゃないか。思い入れのあるCDも全部捨ててしまっていたし。そんなで、CDをかけた。意識しないと他のものって入ってこなくなるんだな、とか思いながら。

電子音の踊れる系なんだとまず意外に思った。バンドというイメージが先行してたので。音の広がりの気持ちよさ。うねったり、歪んだり、遠くまで響いたり。感覚的に魅了された。それから、歌詞に惹き付けられた。なんというか、端的で、簡単なんだけど、何かを伝えてくるんです。何かはうまく言えない。焦りだったり、嘆きだったり、ノスタルジアだったり、悲しみだったり、強い意思だったり。その時々の、サカナクション、同時に私たちがそこにある感じがするんです。君も彼も僕らもびゅーんと一緒にとんでまるで走馬灯のようなんです。

音楽と詩とが素晴らしく解け合ってる。日本的なリズムがいつも取り入れられてるので、それが心をつかんで離さない点だと思う。盆踊りや、祭りの音楽がベースにあるんだと思ってるのですが。とにかく新しくて古くてかっこいいってことです。

それで、現在までにアルバムは4つ聴きました。ベスト10書いてる人がいて、羨ましかったので、真似したい。ただ順列はつけないで、列挙したい。

sakanactionから。
ミュージック
夜の踊り子
なんてったって春だ
僕と花

documentaryから。
アイデンティティ

シンシロから。
Ame(B)
ライトダンス
ネイティブダンサー


kikkuukiから。
アルクアラウンド
表参道2時

サカナクションは、何かに片寄ることがないような気がする。どの要素もバランスよく取り入れてる気がする。その上で個性が出せるのだから、素晴らしいというよりほかない。