眩暈
ぷっつりと途切れるときには途切れてしまう。
なんだか死ぬときみたいだと思う。
ここ数年で身を包み込む濃密なゼリーのようなものはうっすらとしたオブラートに代わった。
日の光を浴びるとひりひりと痛む皮膚を抱えて生きている。
変わらない事はないはずだと念じる。
そのくせ変わらないということを願っている。
永遠はどこにもない。わかっているはず。
言葉は段々とその広がりをなくした。
イメージが手に負えなくて途方にくれることもなくなった。
漠然としたものを漠然としておけるようになった。
それと同時に彩を欠いた。
夏の日の残光が部屋に薄く差し込む。
この光もやがてすぐに消えてしまうだろう。
私は私の掌に一つとして掴めなかったことを悔いるだろう。
手を離さなければよかったというのではない。
向こうから離れていってしまったのだ。
私が何一つ正確に捉えられないうちに、流れていってしまった。
それでも私は、それを掴まえてみようと、精一杯足掻くべきだったのかもしれない。
足元の柔らかい花蕾を踏み潰して、半分だけの月を見る。
贅沢な石
贅沢品とは本質的に余分なものだ。あってもなくてもかまわないものだけれど、あると持ち主が幸せになれる。私は無駄なものが好きだ。そこから何も受け取れないものが。
受け取ろうとした瞬間からそれは生産的なものになってしまうから。贅沢品はただそこにあるだけでいいのだ。
一番欲しい贅沢品は、水の入っている石。何かの本で読んだのだが、一千年前の水をうちに含んでいる石があるそうである。手に持って揺らせばちゃぷちゃぷと太古の水の音がするだろう。石の色は透明に近い乳白色だといい。
そういえば我が家にも石がある。ただ眺め、触れるためだけに存在する石。
手触りはひんやりとしていて、乳白色の部分と淡黄色の水晶のような部分からできている。つるりと手のひらに丁度いい大きさである。月のようにも見えるし、レモンドロップのようにも見える。何となく石に触れたくなると触れて、それ以外の時は全く忘れている。もう何年も手放さずにいる、大切な石である。
廃墟を愛す理由
廃墟が好きでいくつも見て来た。廃墟の中でも最も切なく悲しいのは、やはりラブホテルだと思う。ラブホテルが廃墟になる姿を見ると、全て物事は浮世の短い一瞬であるとしみじみ思う。生きるということは全く儚いと思う。人を愛しいと思う気持ちも、永遠という概念に対しては無力で、全ては無常である。朽ちていくもの達はただ静かにそこにある。死ぬという事は元の物質に戻るという事で、廃墟は死にながら、生まれ返りつつあるということが素晴らしい。
廃墟はカラーが一番だと思うが、白黒で有るかなきの色に思いを馳せるのもいい。廃墟の写真を眺めながら、在りし日の色とかざわめきを想う。廃墟は鉄錆の赤が美しいと思う。
ただそこにある、ということが奇跡のように感じられる瞬間がある。例えばある日お寺に行ったら小さな仏像が洞穴に安置されている。それを見て、「雨の日も風の日も嵐の夜もずっとここにあったんだな、これからもずっとあるんだな」と思う。自分が辛かろうが幸せだろうが、それはただずっと静かにそこにあるということ。
朽ち果て蔦が絡まった観覧車の中に。落書きをされた病院の内部に。そういう「ただそこにある」、ということが潜んでいるように思う。