浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

萩原朔太郎詩集

萩原朔太郎詩集の序に、詩人に進歩はなくただ変化があるのみ、という箇所がある。だから詩作はただの記録であり、魂の慰めに過ぎないと。

大渡橋や、新前橋駅という詩の中には、朔太郎の強い憤りが存在している。もちろん自然や自らのノスタルジーである郷土を破壊されたという側面もあると思うが、どちらかというと、大切なものを壊した挙げ句に作るものが全く美しくないではないか!という憤りのように私には見える。

大正時代は浪漫の時代という印象がある。資生堂フルウツパーラーや、噴水、遊園地、回転木馬、景観の整った公園に、バラやすみれやユリ、銀座にはモボやモガが新しい装いで闊歩して、新しい空気、優美な気配が満ちているというような。その一方、なんとなく紛いもの、薄っぺらさのようなもの、胡散臭さを感じる時代でもある。

明治に西洋が入ってきて、急ごしらえで経済ばかりを優先するかのような西洋化が詩人には我慢できなかったのだろう。だから「ふらんす」に行きたしと思えど、あまりに遠く背広を作る、ということになる。それで慰められるかはわからない、よりいっそう虚しいかもしれないと思いながらも、ふらんすを思い浮かべ背広を作る朔太郎は、詩をつくりできる努力をした。「ふらんす」とは現実のフランスではなく、ユートピアとしてのフランスだったのかもしれない。どこにもないもの、それゆえ限りない幻想を投影できるもの。

このところ、朔太郎の詩集をずっと手元に置いてる。風がふくたび、月をみるたび、思い出している。

私は青猫のなかの野鼠という詩が好きだ。本当に私たちの幸福はどこにあるのだろうと、思うから。