浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

叫びたいこと 萩原朔太郎と中原中也

萩原朔太郎の、小説家の俳句、という小論を読んでいて、詩人の本来ということを考えた。この小論は、主に芥川龍之介の残した俳句について述べたものだ。文人の余技であるとか、なかなか手厳しいことを述べていると思う。

芥川の作品は全体に作り込まれたものであって、手のひらに乗るようなミニチュア的な造形や、箱庭のような俯瞰で見られる世界を目指したのではないかと思うから、それについては、趣向の問題ということで、一旦置く。

この論のなかで、朔太郎は「詩人的性格とは常に燃焼するところのものであり、本質的に自然人的野生や素朴を持つもの」と書いている。かの中原中也が「芸術に始源ありとして、それは何だか知ってゐるか。叫びたいことだ!しかも所謂喜怒哀楽、即ち損得によっておこる喜びや悲しみを叫びたかったのではなく、かの生の歓喜だ!」と詩と詩人という小論に寄せていた。

二人が交流を持ち、親しかったことは、知っていたつもりだったが、やはり詩人に本当に必要なのは熱量を帯びた叫びなんじゃないかと思えてきた。詩人が自分のために叫んだ言葉のいくつかが、熱を帯びて私たちの心にぎゅんと突き刺さるのだ。それは本当の本心からでた嘘偽りのない言葉だから。作ろうとして作ったものではないから。血が通い、切れば痛いという身体からの叫びだからだろう。けして観念の遊びではないのだ。詩には詩人のその時々の本当の声がある。 だから中也は見分けのつきづらい偽善のようなものを最も怖れたんだろうと思う。

まず詩人が何より自分のために作った言葉を、私たちは謂わば分けてもらっているのにすぎない。