浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

夏目漱石 こころ

学生時代に夏目漱石のこころを読んだ。先日、紀伊國屋でこころの新装判を見かけて、読みたくなった。

この装丁は、新潮プレミアム判というので、よくある退屈な(失礼)水彩イラストではなく、真っ白なカバーにメタリックグリーンの押箔で題字が印刷されてる。この装丁にやられてしまった。カバーがシンプルでスタイリッシュなので、他の文庫本にも手が伸びそうになったほど。川端の雪国は淡いブルー、谷崎の刺青は真っ赤、銀河鉄道の夜は紫、この調子で詩集とかもだしてくれないかしら。

こころを読んでの感想。
他人に裏切られる体験は人を不信にするけれど、自分というものが心底信じられなくなったとき、人は最も絶望するのかもしれないと感じた。外からやってくるものはまだいい。闘ったり、無視したり、諦めたり、できるから。自分のなかに巣食う、自分自身も含めた人間というもの自体の信じられなさ、それは内側からやってきて、徐々に身体を蝕み、死に至らしめるのだと思う。
先生はしきりと妻を蚊帳の外に置き、純白のままにいてほしいと願っているようだが、これも最大限の痩せ我慢、格好つけであって、自分が認められない自分自身を、愛する妻が知るようなことがあってはならないという、美徳だろう。
卑怯なことがきらいで、潔癖症なまでに正しさに拘るのに、形式を重んじるのに、いざ土壇場になると、生々しくエゴイズムの塊の自分が出てきて、自分も他人も世界も本当はそのようなものなのだと囁く。
いざという時きっちり死ねるか、時期に遅れて恥をさらす、死ぬより辛い生き地獄となるのではないか、という自らの牢獄に閉じ込められたある時代の人を描いているようである。
解説で森鴎外との比較が載っていたが、森鴎外の江戸時代の自死はもっと恬淡としていたように思う。
近代に入るとより個人が際立ってきて、それにともない自らの選択について煩悶するという構図が目立つように思う。死ぬこと生きることいずれも過去とは比べ物にならない重みになり、集団的形式をそのまま踏襲することへの、ためらい、自意識が、判断を鈍らせたのだろう。

明治とはそのような時代だったのかと改めて考えさせられた。