廃墟を愛す理由
廃墟が好きでいくつも見て来た。廃墟の中でも最も切なく悲しいのは、やはりラブホテルだと思う。ラブホテルが廃墟になる姿を見ると、全て物事は浮世の短い一瞬であるとしみじみ思う。生きるということは全く儚いと思う。人を愛しいと思う気持ちも、永遠という概念に対しては無力で、全ては無常である。朽ちていくもの達はただ静かにそこにある。死ぬという事は元の物質に戻るという事で、廃墟は死にながら、生まれ返りつつあるということが素晴らしい。
廃墟はカラーが一番だと思うが、白黒で有るかなきの色に思いを馳せるのもいい。廃墟の写真を眺めながら、在りし日の色とかざわめきを想う。廃墟は鉄錆の赤が美しいと思う。
ただそこにある、ということが奇跡のように感じられる瞬間がある。例えばある日お寺に行ったら小さな仏像が洞穴に安置されている。それを見て、「雨の日も風の日も嵐の夜もずっとここにあったんだな、これからもずっとあるんだな」と思う。自分が辛かろうが幸せだろうが、それはただずっと静かにそこにあるということ。
朽ち果て蔦が絡まった観覧車の中に。落書きをされた病院の内部に。そういう「ただそこにある」、ということが潜んでいるように思う。
春の宵
春風がセーラー服の裾を乱した。制服の青白さ不吉さが匂いたった。襟元の紺色に映る少女の色の白さを見るたび、私は線香の匂いを嗅ぐ。
どこかから線香の香りが流れて来、濡れたような緑が耳にもうるさく、アスファルトからの照り返しが眩しい夏が死に一番近いことは分かっている。しかし、春の曖昧でぼんやりした空気も彼岸に似つかわしくはないだろうか。朧月夜を眺めて歩き続けたらきっと神隠しにあう。
人には持って生まれた宿命のようなものがあるのだ。つらつらと考えながら歩く。自然に逆らうことは果たして罪だろうか。罪は甘い味がする。危ないことが分かっていてそれでも何も言わずに黙っているということ。それを共犯と人は呼ぶ。道徳という概念を振りかざしても、心に巣食っている滑らかな蛇はもう動き始めているのだ。もっとしっかり縛りつけてくれなくては。と叫びたくなる。磔にして指一本動かせぬほどに私を縛りつけておいてほしい。
湯が冷えて水になる。黒髪が濡れて冷えてしまう。眠気が黒い川へと誘う。白い百合のように流れていく。