浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

薔薇とナイチンゲールとひよどり

力をなくした時、サアディのこの詩を思い浮かべることがある。

 

「花瓶の薔薇がそなたに何の役に立とう
わが薔薇園から一葉を摘みとれ
薔薇の生命はわずかに五日か六日
わが薔薇園は永遠(とわ)に楽しい

―サアディ「薔薇とナイチンゲールとひよどり」

 

始めてこの詩を読んだ時、本当の豊かさとはこういうことかと感じた。

そして、永遠に楽しいではなく、永遠に美しいと、誤読した。

美しい薔薇園を心の内に持つ人は、一葉摘み取られたくらいでは、なんでもない。

それはしっかりと根を張り、美しい緑の葉を持ち、蕾を満々とつけているのだから。

そして季節が巡ってもまた同じように蕾をつけ、芳香を漂わせる、美しい花を降らせる。

薔薇の命は短くとも、薔薇園は永遠なのである。

シーシュポスの神話

学生時代、教授に読むべきと薦められたものの、他のことにかまけて、放置してしまった一冊。手に取ってみると、シーシュポスの神話自体は、8ページほどの短編だった。

読後の感想。

不条理な世界に対して、自らの意志でもって、「それでよしと」と言い続けること。そのような行為を通じてのみ、世界は押し付けられたものではなく、自分がまさに切り拓くべき場になる。自らの意志による全肯定によってのみ、不条理に翻弄される受動的な人間ではなく、主体として世界を理解し、関与することが可能になる。その地点では、苦しみも喜びのための一歩になりうる、とカミュは言っているように感じた。そのようなシフトのチェンジによってこそ、苦難を乗り越えられ、喜びを得られるのかもしれず、それが本当に生きるということなのかも知れない、と感じた。

ブラームス ピアノ小品 116~119

最近ピアノ曲ばかり聞いている。
グレン・グールドのゴルドベルク変奏曲や、ブラームスのピアノ小品など。
特にブラームスの後期ピアノ小品116が好きでずっと聞いている。
叩きつけるように激情的だったり、深い憂いに沈みこんだり、かと思うと少しユーモラスにおどけたり。
ブラームスと話をしている気持ちになれるところがよい。
壮大な曲だけではなく、ピアノだけのシンプルな演奏でも、彼の人となりがこんなに伝わってくるというのは、本当に素晴らしいことだ。
自分丸ごとを、過ごしてきた時間や出来事ごと、音楽に投げかける、静かだけれども、温かく、血の通った音楽だと思った。

紺の真昼

気がつかないうちに過ぎていてほしいとさえ思うのは贅沢なことなのだろうか
君は濡れた絹の冷たさで私を見ている
気がつかないうちに終わってほしいとさえ思うのは望みすぎなのだろうか
君は磨いだ月のような鮮烈さで私を見ている
今はただ音楽のなかでまどろんでいたい
二度と会えない人と話をしていたい

芝不器男

あなたなる夜雨の葛のあなたかな
白藤や揺りやみしかばうすみどり

夜、入浴中などに、しとしと雨が降ってくると、芝不器男の句がふっと思い出される。向こうの向こうに思い出されるのは故郷なのかあの人の横顔なのかなと思ったりする。

白藤の句は、一昨年、藤園で、満開に咲いた白藤を見たときに、知った句。真っ青な空の下、濃い匂いを振りまくうすみどりの白藤は、羽化する前少年のようだった。

同じく白藤を詠んだ句としては、大串章の、
白藤に王朝の夜のあるごとし
がある。
これはもう少し妖艶。

窃視症の見る夢は

その神経質に震える睫毛
あなたの首もとを白々とした剃刀のような衿元を眺めながら
その薄い皮膚の下を流れる温かい血のことを想う
骨ばった指の甲が露草の青に染まるところを想像する
腺病質で麗らかな夜にも病みがちな
透けるような花びらの肺を想う
女のような小指の爪にかじりついて
月長石でできている足首間接を丸く撫でる