浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

車窓から

暖炉で静かに燃える石炭のような空と
垂れ込める鬱屈とした鈍色の雲の間を君が行く
西に向かう少年
こうして僕らはすれ違ってしまうのかな
パッと燃え上がる新しい薪 新鮮な空気
橙色を映した頬を持つ少年
ゆったりとほら空を飛んでいくよ
君をとどめておくこと自体が無理な話かとため息をつく
反復して反復して僕らは喪い続けるしかないのか
西へ行くという少年
日が暮れてしまう
日が暮れてしまう
もうなにも見えなくなる前に

今日も知らない街で

遠くにいる知らない人が水を揺らす気配に心を奪われている。
川縁の静かな呼吸。
透明な水は流れ流れ。
白い息とたぶん暗い星空。
欄干に凭れて君は見るだろう自由の空。
僕は遠くからそれを感じる。
どこにいくも何をするも自由の君は憧れ。
僕の代わりに走って跳ねて寝転んでくれないものか。
僕の代わりに眠り一人になり旅に出てくれないものか。
ただ静かな夕方の鳥の騒ぐ明け方の昼間の暖かい陽光の。
この空は君とつながる空だけど、僕は君を知らないし、君は僕を知らない。
ただ遠くから聞こえない声援を送る。
僕の行けなかった分まで自由に!と。

心葉 ―平安の美を語る― に関して

白畑よしさんと志村ふくみさんの対談をまとめた心葉という本を読んだ。

表題の心葉という言葉を、寡聞にして知らなかったが、この本を通じて、平安貴族の繊細な美の感覚の一端に触れられたように思う。

心葉とは、贈答の際に品物につけた草花や造花のこと。平安の昔、贈答品には季節にあった、心を反映するような草花が添えられていたということである。 日差しや季節や時間まで考慮された微妙な色で染め分けられた料紙は、用途によって選び抜かれ、その人を示す香がたきしめられていたのだろう。そして吟味されつくした歌が、美しく書き付けられていたのだろう。

そこには大切な人と季節を共有したい、今の現在の思いを感覚を分かち合いたい、とでもいうような、繊細な美意識があったと思われる。

もの選びにはその人の感性が強く出る。全てを通じて醸し出されてくるその人らしさ、というもの。

たおやかに美しく、美と戯れ遊ぶ、平安当時は限られた人だけが享受できた世界を、現代の人間は伺い知ることができ、感じることができる。そうであるとするならば、そのような文化はもっと広く世に知られ、大切に受け継いでいかれるべきなのではないか改めて感じた。

岡倉天心 茶の本 第五章 芸術鑑賞 より

岡倉天心の著した茶の本から、美に関して考えさせられる記載があったので、記録しておきたい。

岡倉は、「美術の鑑賞力は、修養によって増大することができるものである」としているが、「われわれは万有のなかに自分の姿を見るに過ぎないのである」とも述べている。また別の項では、「人は己を美しくして初めて美に近づく権利が生まれるのであるから」としている。

また後半で、岡倉は小堀遠州のエピソードを挙げる。小堀遠州は収集物に対する称賛を受けた際、利休と自らを比して、「これはいかにも自分が凡俗であることを証するのみ。利休は自分だけにおもしろいと思われるものをのみ愛好する勇気があったのだ。私は知らずに一般の人の趣味にこびている。」と述べたそうである。

この引用の後、岡倉は、現代美術に対する表面的熱狂は真の感じに根拠をおいていないとした。

岡倉天心は言う。真に美しいものを求め、見極めることは、自らの身の内にも美しさを求める行為であり、自分自身の身の内にも、問いが跳ね返ってくる、厳しい行為である、と。また同時に、現在見ているその美に対する評価は、他人からの評価を気にしたものなっているのではないか、と。自らすら疑う姿勢を常に持ち、美とは何かという真摯な問いかけもまた絶えず忘れてはならないと戒めているようでもある。

歴史のなかで、多くの人が繰り返しの問いを発する。それは本当に美しいものだろうかと。

真実、心のそこから曇りもなく美しいと思えるものを見つけることができれば、それは本当の幸いであり、その場は本当の楽園であろう。

叫びたいこと 萩原朔太郎と中原中也

萩原朔太郎の、小説家の俳句、という小論を読んでいて、詩人の本来ということを考えた。この小論は、主に芥川龍之介の残した俳句について述べたものだ。文人の余技であるとか、なかなか手厳しいことを述べていると思う。

芥川の作品は全体に作り込まれたものであって、手のひらに乗るようなミニチュア的な造形や、箱庭のような俯瞰で見られる世界を目指したのではないかと思うから、それについては、趣向の問題ということで、一旦置く。

この論のなかで、朔太郎は「詩人的性格とは常に燃焼するところのものであり、本質的に自然人的野生や素朴を持つもの」と書いている。かの中原中也が「芸術に始源ありとして、それは何だか知ってゐるか。叫びたいことだ!しかも所謂喜怒哀楽、即ち損得によっておこる喜びや悲しみを叫びたかったのではなく、かの生の歓喜だ!」と詩と詩人という小論に寄せていた。

二人が交流を持ち、親しかったことは、知っていたつもりだったが、やはり詩人に本当に必要なのは熱量を帯びた叫びなんじゃないかと思えてきた。詩人が自分のために叫んだ言葉のいくつかが、熱を帯びて私たちの心にぎゅんと突き刺さるのだ。それは本当の本心からでた嘘偽りのない言葉だから。作ろうとして作ったものではないから。血が通い、切れば痛いという身体からの叫びだからだろう。けして観念の遊びではないのだ。詩には詩人のその時々の本当の声がある。 だから中也は見分けのつきづらい偽善のようなものを最も怖れたんだろうと思う。

まず詩人が何より自分のために作った言葉を、私たちは謂わば分けてもらっているのにすぎない。

伏見

蛍光灯のチラチラする影と
虫のはぜるパチパチというおと
あれは夏だったんだろう

延々続く幽玄な鳥居
どこにもたどり着けないまま
森から出てこられなくなるような
神様への手向けものの馬と
白い敷石のジャリジャリという音
自分が見ているのか見られているのか

すくわからなくなるような闇のなか
僕は手も足も出せずただじっとしていたんだ
その闇の深さのなかで君がすぐそばにいるって知っていたのになにもできずに黙ってたんだ
君を含めた森の気配をただ感じてただそれだけで

僕には君の幻影が必要で
単純な物語を欲していたんだと今なら思うよ

山の麓の緑の美しい町
夕暮れ方に点灯する街灯の儚げな光線
君が曖昧に微笑んだのが見えた気がした
一人電車で離れた

あの頃の僕はもういない
あの頃の君ももういない
でもそこに確かにあったということを忘れないでいる



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閉ざされた壁の向こう側で

言葉が意味をもつ
どこまで世界を理解できるのか
問いかけてくる
ありとあらゆる言語で
善を美を真を虚を
叫びかけてくる
お前の理解はそこまでかと
問いかけてくる
真に正しい在り方はどのようなものかと
僕は答える
知りうる限りありとあらゆる言語で

しかしそこに真実はありはしない
あるのはただの断片化した残骸である

手のなかにわずかに残る果実を僕
啜った
それしかできなかった
それだけが残された最後の方法であった

女は着飾っている
写す鏡もなく見る人もいないなか
満々と衣装を抱えたクローゼットのなかで