浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

春の宵

春風がセーラー服の裾を乱した。制服の青白さ不吉さが匂いたった。襟元の紺色に映る少女の色の白さを見るたび、私は線香の匂いを嗅ぐ。

どこかから線香の香りが流れて来、濡れたような緑が耳にもうるさく、アスファルトからの照り返しが眩しい夏が死に一番近いことは分かっている。しかし、春の曖昧でぼんやりした空気も彼岸に似つかわしくはないだろうか。朧月夜を眺めて歩き続けたらきっと神隠しにあう。

人には持って生まれた宿命のようなものがあるのだ。つらつらと考えながら歩く。自然に逆らうことは果たして罪だろうか。罪は甘い味がする。危ないことが分かっていてそれでも何も言わずに黙っているということ。それを共犯と人は呼ぶ。道徳という概念を振りかざしても、心に巣食っている滑らかな蛇はもう動き始めているのだ。もっとしっかり縛りつけてくれなくては。と叫びたくなる。磔にして指一本動かせぬほどに私を縛りつけておいてほしい。

 

湯が冷えて水になる。黒髪が濡れて冷えてしまう。眠気が黒い川へと誘う。白い百合のように流れていく。

平家物語 古川日出男版

生き生きとした文体に驚く。祇王祇女仏とじのところなどは、源氏物語の鈴虫を思いだす。これを読んでいたら原文にも当たりたくなる。学生の時にこれを読めていたら違ったなと思う。平家物語はなにかを失うのが怖いとき、どうせいつかすべて失うのだと悲しくなったとき、何度でも読みたくなる。

平熱の京都 鷲田清一

疲れてたかぶってる脳を休めたくて、本屋に入って文庫を買う。鷲田清一の「平熱の京都」一気に気分は京都の界隈をふらふらふわふわ散歩してるように。なめらかな日本語がすらすらっと頭に入ってくる心地よさ。よそ行き他人顔となんだか憎めない顔両方で京都が誘惑してくる本です。時々挿入されてくる、なんとも言えないノスタルジー、心細さ、世界が裏返ることに対する恐れと期待が、鷲田清一の本を読んでる感を強くする。

浮遊霊ブラジル

浮遊霊ブラジル、読了。

運命には、意表を突かれた。そうして僕らが生まれたのだとしたら、死ぬときもやはりそんなものなのかもしれない。つまり、うっかりとか、思ってないとか。

アイトールベラスコの新しい妻、では、スクールカーストという閉鎖的な空間で起こる地獄が描かれた。

地獄では、こんな地獄死ぬより辛いと思ったけれど、誰とも話さずだんだん意識だけが遠のいていくのは、結構現実味のある死に方のような気がする。

結局私達は今まであるスキルで生きてくしかない。死ぬからって、急に文学的になったり、賢くなったりしない。今あることの延長で、僕らは生きることにも死ぬことにも向き合わなきゃいけないってことだ。

タイトル読んだときに感じた強烈な違和感。浮遊霊とブラジルが読み終わる頃には仲良くてを繋いでいるのが不思議であり大成功だと思う。ブラジル辺りまで行ったら確かに成仏できそうだ。

最も強く感じたこと、死ぬより成仏できないほうがずっとずっと怖い。

手痛い批評

誰彼の面白い話なんぞいうのはもういい
聞きあきた
誰かを微笑ませたい?
そんな欲をもつ者は地に落ちればよい
聞きたいのは如何にしてあなたが生きているのか
あなたが心を踊らせるなにかであって
操作的な自己顕示的な偽善のようなものではない
短く言葉にしてすらすらと
この際自分を語るのもやめにしたらどうか
ゆるくつながるなんて吐き気がする
それなら誰とも一緒にいないことで結構だ

虞美人草を読んで 夏目漱石

道義と一個人としての利益。人間の信頼・信用とは一体何かという古く新しい問いに立ち戻らせてくれる小説である。

他人に対して、信じられない行いをしたものは、その後も人に対する疑念がぬぐい去れない。自らを鏡のように転写するのが常人であるからである。このため、自らを信じられる(真面目)状態におくべきことが肝要であると感じた。それが結果、他のためにもなる。利益が絡み時にはそれが難しい選択のように思われるかもしれないが、結果的には自らも他をもを救うのである。いつも真面目であることはないが、大事なときには真面目に立ち返れないと大きな犠牲を払うことになるのだ。恋愛は一大事だ。生活も大事だ。しかし本当に大切なものは信であるとこの小説は言っている気がする。

また犠牲を強いられた結果としてあることを選ばされたのと、自らの選択として選んだのでは、この間にはれっきとした差が生じる。主体者が自らの問題として、犠牲を選び取った、あるいは腹の底から理解してその状況を選んだのであれば、その影響は限定的である。自ら選択したという能動的な姿勢は新しい人生を切り開くキーになり得る。自然の中に流されるようにして、選ぶ(或いは選ばない)ことを決めるのではなく、あくまで自分の意志として選択するということが重要である。

決して目先の状況に流されないようにせよ、自らの選択として自ら信じるものを
信じろ、それがいずれ自分や周りの人生を救うのだと夏目先生に言われているようである。

自分を振り返ってみると、この小説を10年前に読んでいたとしたらここまで心に響いただろうか。ただの恋愛小説としか読めなかったのではないか。結局、人生を我がものとして眺める姿勢を欠いていたのだと思う。自分の人生上の大きな変化で、この小説の言わんとするところが朧気ながらわかるようになってきた気がする。その意味で血にも肉にもなった小説だった。

公園の裏手に

松林の間を薄紅色の睫毛が匂う
しなやかにしなだれて誘う
夜の時間は自らを去るように幻惑的で
昼の時間は潮騒のように揺らめいている
ガラスでできた海月が発光して漂う
ここはまるでガラスでできた博物館
どの生命も同等に展示されているのだ
まつげに当たる風優しく柔らかく
暗闇に匂いたつは梅
踊るようにガラス海月が泳ぐ
僕はただ息をつめてそれを眺める
時間が止まったここはまるでガラスの博物館