浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

幻燈

全部なかったことなのかもしれないけれど、時々思い出す。

その習慣だけが残っている。

 帰宅途中、空を見上げると、桜色と空色が橙に溶け合って沈んでいくのが見えた。

それらは絡まりあって、やがて銀色の水盤となり、漆黒の闇に浮かび上がるのだろう。

やはり、西方には極楽浄土があるような気がしてくる。

鼻の先が冷たくなって、冬のにおいがしている。

風に髪を弄られて、夜が来るのを感じる。

ふとあなたがここにいたらどう感じるのだろうかと考える。

空を染めるのは夕焼け。

肌を透かしてみる血の色のようだ。

暖かく、白く、柔らかい女が流れていく。

空はそれからサファイヤを燃やしたような色に変わり、乳白の月が昇って、花びらの香りを振りまきながら、夜を深める。

眩暈

ぷっつりと途切れるときには途切れてしまう。

なんだか死ぬときみたいだと思う。

ここ数年で身を包み込む濃密なゼリーのようなものはうっすらとしたオブラートに代わった。

日の光を浴びるとひりひりと痛む皮膚を抱えて生きている。

変わらない事はないはずだと念じる。

そのくせ変わらないということを願っている。

永遠はどこにもない。わかっているはず。

 

言葉は段々とその広がりをなくした。

イメージが手に負えなくて途方にくれることもなくなった。

漠然としたものを漠然としておけるようになった。

それと同時に彩を欠いた。

 

夏の日の残光が部屋に薄く差し込む。

この光もやがてすぐに消えてしまうだろう。

私は私の掌に一つとして掴めなかったことを悔いるだろう。

手を離さなければよかったというのではない。

向こうから離れていってしまったのだ。

私が何一つ正確に捉えられないうちに、流れていってしまった。

それでも私は、それを掴まえてみようと、精一杯足掻くべきだったのかもしれない。

 

足元の柔らかい花蕾を踏み潰して、半分だけの月を見る。

水底の石

膝に気の早い朝顔が咲いた。

水色のレンズの向こうにのぞく世界を見ている。

大体白く煙っていてよく見えない。

明るい光は網膜に突き刺さるし、脳が痛む。

紅い花がぽたりと一つ落ちて、手首を桃色に染めた。

水に沈んでいく手首を見た。

白い指が優雅にピアノを奏でた。

紫の花。紫の花。

暁が死んだ夜に誰かが月を齧るのだろうか。

月はパックリと薄紅色の口を開くだろう。

目は見開いている。

でも何も見ていない。

目は閉じられたままだ。

落ちたばかりの星はまだ暖かく、ほんのりと輝いていた。

白い紙に包んで静かに川に流した。

大きな百合の花のようにゆっくりと揺らいでやがて沈んだ。

月光果樹園

白くて厚ぼったくて柔らかい花がぽかりと咲いた。

夜の闇は冷たくなめらかで、昼の光は暖かく拡散していた

白銀灯の下で待ち合わせをしていたら、ぽたりと落ちた。

ぽたりぽたりと溶け出した月がそこいら中に落ちた。

月と花びらが道路中に拡がった。

花粉で息が詰まるので部屋に帰った。

水の底を柔らかくなぞると銀色の粒が体を包んだ。

一つ一つの銀色には全部私が映っていて、

その私は全て百合の花だった。

粒々は小さくはじけて飛んで、白い渦の中に巻き込まれて消えた。

後には何も残らなかった。

ただ密かな香りだけ

首飾りの夜

『夜氣の濃い夜には香水が肌に染み易くなるので婦人方はご注意を』とラジオが言ふ。

天花粉を塗りつけた首筋に、それより白き月長石の首飾りを。

紅色の濃き脣に、百合のをしべを當てて、戀が叶ふといふおまじなひ。

夕暮れに目覺めた時、ほんの僅かにあの人の薰りがした。

あれは夢だつたのだらうか。

ベランダの椅子に腰掛ければ、星が手に取れさうな程近くに。

「貴方、ゐないのですか?」

チャイムが鳴つて愛しい貴方のさう呼ぶ聲がするまで、ここに座つてゐることにしませう。

贅沢な石

贅沢品とは本質的に余分なものだ。あってもなくてもかまわないものだけれど、あると持ち主が幸せになれる。私は無駄なものが好きだ。そこから何も受け取れないものが。

受け取ろうとした瞬間からそれは生産的なものになってしまうから。贅沢品はただそこにあるだけでいいのだ。

 

一番欲しい贅沢品は、水の入っている石。何かの本で読んだのだが、一千年前の水をうちに含んでいる石があるそうである。手に持って揺らせばちゃぷちゃぷと太古の水の音がするだろう。石の色は透明に近い乳白色だといい。

 

そういえば我が家にも石がある。ただ眺め、触れるためだけに存在する石。

手触りはひんやりとしていて、乳白色の部分と淡黄色の水晶のような部分からできている。つるりと手のひらに丁度いい大きさである。月のようにも見えるし、レモンドロップのようにも見える。何となく石に触れたくなると触れて、それ以外の時は全く忘れている。もう何年も手放さずにいる、大切な石である。