浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

川端康成随筆集

川端康成随筆集を読んだ。きっかけは、ドナルド・キーン氏の特集で、「美しい日本の私」に関する言及があったから。
美しい日本の私については、言うべくもなく、日本の美について、万葉集から茶道や石庭に至るまで、その根底に通じている美というものに対する意識を網羅しており、素晴らしいものであった。特に一休禅師や源氏物語については、改めてその目を開かされたような思いがした。

その他、読んでいて気になった点を2つ3つ書いておきたい。

まず、川端文学に繰り返し現れる「ちよ」について。モデルである女性との往復書簡が公開されたことで、川端文学における、ある一定の現実の枠組みのようなものが提示された。

随筆集のなかにもあったが、川端には籠の中のかぐや姫のように、美しいものを大切に育て、めでたいという願望があったようである。川端は、初枝を早期に引き取って結婚しなかったことを過失であったとし、繰り返し執着しているようである。しかし、問題はそこではなく、やはり初枝が川端のそのような願望を感じ取った故の破談だったのではないかと感じる。

初枝は自分は金で買われるのではありません、と手紙にしたためており、それは川端を大きく傷つけたのであろうが、やはり真実の一端なのではないだろうか。川端には、子供時代のないものとして、同じ境遇のものとわかり会いたい、ゆるしあいたい、共に子供に戻りたい、と、いうユートピアに近いような切望があったようである。しかし、それは甘い感傷を誘うようであるが、不可能な試みであり、また危険なものである。

川端はまだ若い頃から、老年めいた孤独の寂寥の影がべったりとくっついているようだ。みずうみのなかで、主人公が足を洗う描写があるが、その醜悪な自己描写にはぞっとさせられた。あまりに徹底的に自己描写が過ぎるのも苦痛であると感じた。

眠れる美女の老人の描写などは、川端が年を重ねたから書けたという類いものではなく、元々の傾向なのだろう。三島が、禽獣の評論として、悲劇的な作家としたそうであるが、ごく的を射ている。

川端が小説を描き続けられたのは、聖なるものへの飽くなき追求があったからであり、それを現実のものとして手に入れてしまえば、その現実こそが今度は理想を圧迫してきたであろうことが容易に想像がつく。

子供時代を知らない自分と、同じように育ったかに見える初枝。しかし、川端と初枝は他人であり、その背景とするものも同じとは言えないのだ。そこで、自分と他人を同一視してしまうこと。これこそが思い込みというもので、恋愛は美しき思い込み、すれ違いがないことには、成立し得ないものであるが、それはやはり大変に危険なことなのである。川端が初枝と結婚していたら果たしてどうなっていたか。それは想像の範疇でしかないが、やはりどちらかがどちらかをダメにしてしまっただろう。初枝はそれを感じとり、身を引いたのかもしれない。

正確に言えば、川端は初枝自身を求めているのでなく、初枝を通して見える聖なるものを含んだ幻想の世界を愛しているのにすぎないからである。かくして、一人相撲な愛は永遠に去ったのであろう。言い換えてみれば、その去っていった幻想の中にある永遠の聖なる少女こそが、川端文学の源であるのであろう。永遠に描き続けるためには、相手は冷たい鏡の中に写る虚像でなくてはいけない。かぐや姫のように、決して触れることのできないものである必要があるのだ。