浮世離

水面に浮上してほんのつかの間の息継ぎ。心象風景がほとんど。

岡倉天心 茶の本 第五章 芸術鑑賞 より

岡倉天心の著した茶の本から、美に関して考えさせられる記載があったので、記録しておきたい。

岡倉は、「美術の鑑賞力は、修養によって増大することができるものである」としているが、「われわれは万有のなかに自分の姿を見るに過ぎないのである」とも述べている。また別の項では、「人は己を美しくして初めて美に近づく権利が生まれるのであるから」としている。

また後半で、岡倉は小堀遠州のエピソードを挙げる。小堀遠州は収集物に対する称賛を受けた際、利休と自らを比して、「これはいかにも自分が凡俗であることを証するのみ。利休は自分だけにおもしろいと思われるものをのみ愛好する勇気があったのだ。私は知らずに一般の人の趣味にこびている。」と述べたそうである。

この引用の後、岡倉は、現代美術に対する表面的熱狂は真の感じに根拠をおいていないとした。

岡倉天心は言う。真に美しいものを求め、見極めることは、自らの身の内にも美しさを求める行為であり、自分自身の身の内にも、問いが跳ね返ってくる、厳しい行為である、と。また同時に、現在見ているその美に対する評価は、他人からの評価を気にしたものなっているのではないか、と。自らすら疑う姿勢を常に持ち、美とは何かという真摯な問いかけもまた絶えず忘れてはならないと戒めているようでもある。

歴史のなかで、多くの人が繰り返しの問いを発する。それは本当に美しいものだろうかと。

真実、心のそこから曇りもなく美しいと思えるものを見つけることができれば、それは本当の幸いであり、その場は本当の楽園であろう。